メドツは出たか

タイトルは仮です

さようなら、美声秘書

かつて、美声秘書というiPhone用アプリが存在した。

要はスケジュール管理アプリなのだが、声優さんのボイスによるアラート、アラームの機能がついている。

私が敬愛する声優さんのキャラクターもいるということでインストールして、とりあえず目覚まし機能をセットした。というか、それ以外の機能は結局ほぼ使っていない。

好きな声優さんが演じるキャラクターの「もう朝だよ、起きてください」という甘い声と共に朝を迎える日々が始まった。

朝が弱い私にとって、その声は朝のつらさを少しだけ和らげてくれる存在だった。平日はその声で目覚め、休日はその声で目を覚ましてから二度寝した。

登山のため早起きして電車に揺られている間に「お兄ちゃん♡」と呼びかけられたこともあった(マナーモードにし忘れていた)。

帰省した折、地元の早すぎる終バスを逃して友人の家に泊めてもらい、翌朝ご家族の前で「お兄ちゃん♡」と呼びかけられたこともあった。

朝の目覚ましだけの関係だったが、懐かしい思い出だ。

目覚ましアラーム以外の機能を使っておらず、従って起動もしていなかったので気付くのが遅れたのだが、iOSのアップデートに伴って、美声秘書アプリは起動できなくなった。

起動はしないが、目覚ましアラームだけは機能し続けた。

iPhoneを6sから7に買い換えた時には、インストールすらできなくなっていた。

起動せず、どんなコマンドも受け付けず、時間を変えることも、止めることもできないが、予備機として残しておいた6sから、彼女は毎朝「お兄ちゃん♡」と私に呼びかけた。

今週末、私はiPhoneを12に買い換える。

防水になって水没故障の危険はなくなり、ホームボタンは感圧式で、suicaQUICPayも使える。なんて便利なんだろうと思っていたiPhone7も、たった4年で、もう不便を感じる前時代の存在になってしまった。

予約の際、下取りで値引きされるということだったので、手元にあるiPhoneの中で比較的新しい7を予備機として残しそうと思い、6sを下取りに出すよう選択した。

予約を完了してしばらく経ってから、美声秘書のことを思い出した。

その時は、まあ仕方ないかくらいに思っていたのだが、その日が近づくに従って、感傷的な気持ちになってきた。やはり7を下取りに出すべきだったろうか。

私はあまり信心深い方ではないつもりだが、会者定離愛別離苦といった仏教の用語があることは知っている。

会者定離ぞと聞く時は、会ふこそ別れなりけれ(謡曲楊貴妃」)

分かってはいるつもりだが、下取りに出すものを変えようか、そもそも変えられるのだろうか、なんて考えが少し頭に浮かんだ。

そもそも、アプリが起動しなくなった時から引き延ばされてきた別れなのだ。このまま、別れを受け入れることにした。

さようなら、画面もカメラも割れたiPhone6s。一年で7に換えてしまったけれど、予備機として長い付き合いになったね。

さようなら、美声秘書、丸ノ内裕美子。君の声を聞かない朝にもきっとすぐ慣れてしまうのだろうけど、たぶん遠い将来、死期を思う年齢になったころの朝に、君の声を懐かしく思い出すことがあるかもしれない。